遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

「いまさら感」と「やっぱり感」/日展

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日展の書(篆刻)の部門で入選審査に不正が発覚したとの報道で、「いまさら感」と「やっぱり感」を半分ずつ抱く。(私のプロフィール画像は、とある篆刻作家の毛筆作品「上々吉上々」の「吉」の部分であります。)

70年代後半から80年代前半まで、NHKで「ルポルタージュにっぽん」という番組が放送されていた。リポーターは毎週放送日ごとに異なり、小田実今村昌平、羽仁進、大島渚、澤地久恵、樋口恵子、寺山修司黒井千次香川京子佐木隆三などが、さまざまな社会の素材にいろんな切り口で焦点を当ててリポートし、茶の間の私たちを安全なまま未知の世界へ引きずり込んでくれた秀逸な番組群だった。

その番組で、ちょうど34年前の文化の日、1979年11月3日に「日展審査室」というタイトル番組が放送された。リポーターは松本清張。「日展」の入選作を審査決定する過程を松本清張とTVカメラが私たちに伝えてくれた。

日展は、重鎮の東山魁夷さんの新作が鑑賞できるし、日本画、洋画、彫刻、工芸、書などが同じ会場で鑑賞できるので、毎年楽しみにしていた公募展だった。なので、その日展ドキュメンタリーはとても興味深かったし、松本清張がリポーターなのだから、ミステリアスな予感もしていた。

一言でいうと番組は、「日展、審査方法に疑問あり」という主張で一貫していた。

私が憶えているシーンは、審査員が待つ部屋に、大きな出品作(確か日本画だった)が二人の係員によって次々に運ばれてくる。作品には作家の名前と属する会派が書かれた紙片が添えられている。会派とは、著名な作家を頂点とした「○○会」と名乗るいくつかの集団で、ほとんどの作家はその会派のどれかに属しているようである。
審査員が一つの作品にどれくらいの時間を使っていたかはよく憶えていないが、そんなに長くはなかったような気がした。しかし、審査員は「○○会」の文字を見逃してはならないのだと思う。

清張は「会派」が示された紙片に着目し、会派を示さなくてもいいんじゃないかといった疑問を呈していたように記憶している。

この度発覚した書の篆刻部門での不祥事は、会派ごとに入選者数の割り振りがあり、会派に属していない人の入選はなかったというもの。1万円の参加料でだれでも応募できる公募展なのに、作品の好き嫌いや良し悪しで決められないで、属している会派で決められるという不条理。(好き嫌いや良し悪しでさえ、やるせない不条理なのに…)応募者はそんなこと暗黙の了解なのだろうが、その仕組みたるや、政党と国会議員のよう。大きな政党に属していれば、ナチのような思想でも国会議員になれるのと同じ理である。

ともあれ、34年前のTV番組ですでにNHKと松本清張日展に警鐘を鳴らしていた。当時の私は、名前も会派も示さずに、作品だけで選ぶべきだと思っている。作風で作家が特定されることは明白だが、それはそれで作品の力だからいいんじゃないかと思っている。

話は逸れるが、大阪の吹奏楽の名門校淀川工科高校の吹奏楽コンクールへの出場メンバー選びは、楽器パートごとに誰が演奏しているのかわからないようにして吹奏楽部の生徒たちが挙手して選ぶ。トランペットA、B、C、D、Eが一人ずつ生で演奏して、審査する生徒たちは匿名のABCDEのだれかを選ぶというような審査の仕方である。3年生だからという温情も、1年生だからオミットされるという非情さもない、実力だけのなんとフェアな方法かと思う。さわやかな納得感がある。

今回のスクープで、日展だけでなくすべての公募展は岐路に立たされていると思う。実態はよく分からないが、芸術世界と離れた家元制度のようなピラミッド型のビジネス「会派」の存在が問われる時が来たようだ。
これから会派に属して、日展に入選しようとしていた私の夢はこれで断たれることになる。(涙、冗談)