グレッグ・ルッカのアティカス・コディアックシリーズの最終章「回帰者」のご紹介。
グルジアで、アティカスとアリーナは、名前を変えて、
それとは引き換えに、何とか平穏で幸せな暮らしを手に入れていた。
しかし、隣人(とても離れたところに住んでいる)が、何ものかに襲撃される。
襲撃者たちは、一家を壊滅状態にし、14歳の少女を誘拐し、その場を去った。
その少女は、アリーナにバレエを習いに来ていた、家族同然の存在であった。
アティカスは、アリーナが止めるのも聞かずに、少女を救出するために一人グルジアを後にする。
少女は、闇の組織に売られ、その闇を追いかけ、
マッチョなハメットや、やさしくて強いチャンドラーの主人公たちが、
現代に甦ったようなハードボイルドな旅を続けていく。
とにかく、スリリングな勧善懲悪ストーリーに、理屈抜きで魅了されるのである。
どこまでがフィクションなのかよくは分からないのだが、
たとえば、ドバイで「女性」として身を立てて仕送りをする東アジアの、
ことにその数が圧倒的な中国からのきた女性たちのことは、本当なのかも知れないなと思う。
パスポートを逃亡防止のために取り上げられ、ドバイの熱砂の中で安い労賃でこき使われる、
イスラム圏から来た出稼ぎ男たちのことも、本当なのかも知れないなと思う。
アティカスの活躍する(何度もひどい目にも遭う)幹となるストーリーだけではなく、
世界の裏事情も垣間見えたりする物語である。
作者のグレッグ・ルッカは、こう言っている。
「わたしが書きたいのは物語であり、物語を書くということは、すなわち人物を書く
ことだと信じている。人物はさまざまな要素から形成される――性別、人種、育った
環境。男性で白人で中流社会に育った人物がどう考えるかは知っているから、それを
書くことはたやすい。女性であったり、マイノリティであったりと、経験が違えば、
世界の見え方はまったく違うはずだ」
私も家族や親しい人に「物語を読まなければ」と常に言い続けている。
作られた物語でも、人が作るものだから人の魂のようなものが物語には宿っている、
それと触れ合うことが新鮮な出会いになり、
それが生きていく原動力の一部になりうると信じるので、そう言い続けているのである。
たとえ一人称の小説であっても、登場人物たち細やかな心の動きは、きちんと書かれている。
物語を読まないと、人の心のニュアンスは体験できないし、
私たちの暮らしのなかで遭遇する実体験でも、それに気付かないままになると思っている。
また、隣の少女を「誘拐して売る、あるいは、金を出して買う」グループに属するのか、
隣の少女を「命をかけて救う」グループに属するのか、
自分はどこに帰属しているのか、帰属するべきなのか、物語は教えてくれる。
単なる一介のハード・ボイルド・シリーズなのだが、
アティカスともう出会えないのだと思うと、少し寂しくなる。