遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

真夜中のカーボーイ/ジョン・シュレシンジャー

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真夜中のカーボーイ Mightnight Cowboy

監督:ジョン・シュレシンジャー
出演者
ジョン・ヴォイト
ダスティン・ホフマン
音楽:ジョン・バリー

公開 1969年5月25日(米国) 1969年10月18日(日本)
上映時間 113分

第42回アカデミー賞(1970年4月7日)作品賞/監督賞/脚色賞を受賞


レインマン」「わらの犬」「マラソンマン」に続く、

ダスティン・ホフマン主演作のご紹介第4弾は、「真夜中のカーボーイ」。

監督は、「マラソンマン」と同じイギリスの名匠ジョン・シュレシンジャー


テキサスで皿洗いをして小金をため、カウボーイのコスチュームで身を固めて、

憧れのニューヨークに、長距離バスでやってきた主人公ジョー(ジョン・ヴォイト)。

ジゴロになって大金持ちを夢みる、マッチョな田舎ものである。


もう一人の主人公が、ニューヨーク生まれの、ラッツォ(ダスティン・ホフマン)。

ラッツォは、脚に障害があって無職でホームレスのイタリア系の小男で、

肺を患っているというおまけまでついている。


画像上段が、彼らの出会いのシーンである。

不幸な境遇を背負っているラッツォは、ニューヨークで暮らしているというだけで、

世の中がどんなものかを痛いほどよく分かっている。

ラッツォは、初対面でジョーの世間知らずを見て取り、

「この男は瞬く間にこの街に飲み込まれてだめになるだろうな」と、感じる。

映画では、ラッツォがそんなことを「感じた」という説明もセリフもまったくないのだが、

このコーヒーショップのカウンターのダスティンの表情だけで、そういう空気が伝わってくる。

ニルソンの「うわさの男」をバックに、さっそうと故郷をあとにしたジョー。

彼の姿が象徴する明るい未来が立ち消え、一転この映画は本線を歩き始めるのである。

この1シーンのダスティンの表情と演技が、ストーリーの根幹を暗示する。

何気ない場面で、作品の骨格が形作られ膨らみを暗示させる、見事な見せ方である。

公開時期は、ベトナム戦争の真っ只中で、

マッチョなアメリカの行く末も、後付の話になるが、暗示していたのかもしれない。


中段の画像は、青空マーケットでのラッツォ(遠くにジョーも見える)。

ココナッツの実を万引きしようとする場面で、

目が沈んでいて、ラッツォ自身もニューヨークに飲み込まれていこうとしている。


そして下段の画像が、いままさに街角の質屋に入っていこうとする主人公二人である。

ジョーの小脇には、テキサスから持ってきたトランジスター・ラジオが…。

万引きをするような生活をしていても、決して手放さなかったラジオだったが、

背に腹をかえられなくなり、わずか5ドルを手にした二人。


やがて、主人公二人が出会った時の暗示の通り、ニューヨークに追われた二人は、

ラッツォの憧れの土地フロリダに向かうために、長距離バスに席を取る。


社会の底辺で暮らす若者たちを描くことで、アメリカン・ニューシネマは産声をあげた。

その4番バッターといってもいいのが「真夜中のカーボーイ」。

幸せな人たちが誰一人出てこない作品なのに、人間のやさしさが心に残り、勇気さえ与えてくれる。


ニュー・シネマは、主人公の目線で世間を見ることを私たちに体現させてくれた。

主人公たちの目線で作品を体現しないと、ニューシネマは楽しめないのかもしれない。

無意識なる思い入れから、上や下や左や右から主人公たちの目線に近づき、

私たち自身が世間の不条理に気付き、それらに押し倒されて愕然とし、

そんな追体験から人にやさしくなれるのかもしれない。


久しぶりにダスティンの4作を鑑賞して、そんな感想を抱いた、

永田町や霞ヶ関の人々は、いい映画を観ていないのかな。