遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

原発社会からの離脱/宮台真司,飯田哲也

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原発社会からの離脱――自然エネルギーと共同体自治に向けて (講談社現代新書)
宮台 真司・飯田 哲也 (著)


宮台真司は、本書まえがきで、

 <<講談社から震災を機に新書を書けとの御依頼をいただいた。

僕は即座に飯田哲也(てつなり)氏との共著ならば引き受けると申し上げた。>> と書いている。

宮田と飯田は昭和34年(1959年)生まれの同年。

1959年製の優れものは、ギブソンレスポールのほかに、

日本製の二人の素晴らしい知識人も存在する。


私は本書のことを、といっても著者とタイトル名だけだったが、

NHKの「週刊ブックレビュー」で知り、即座に買い求めた。

宮台と飯田が、いま「原発社会からの離脱」を語ってくれるなら、

これ以上のものは望めないと、買い求めた。


3.11以降、反原発派の論客としてあちこちで引っ張りだこの飯田哲也

京都大学原子核工学を修めた彼は、

本来なら原発推進派の真ん中に居てもおかしくないはずなのだが、

本書で「原子力ムラ」を出て行った経緯も詳しく語られている。

ムラに居たときも、ムラを出た後も、国の内外で原発や環境エネルギーとかかわり、

こんなに多くの課題と向き合っていた人物は、ほかにいないのではないだろうか。


そして、私たち読み手は彼の語るこの国の原発環境政策を通して、

この国の悲しむべき旧態依然としたシステムが手に取るようにわかる。

このひどい「旧いシステム」は、そのほとんどが、

我々の眼の届かない霞ヶ関奥の院に、ずっと奉(まつ)られているようである。

ただ「旧いシステム」は、霞ヶ関ムラのみならず、

この国のありとあらゆるところで目にするシステムでもある。


飯田は、あとがきで

   この国の「旧いシステム」は、あまりに日本社会を構成する大多数の善良な人々、とり

  わけ最底辺層や将来世代への眼差しが欠けているだけでなく、その善良さを愚弄し、見下

  し、しかもそこに付け込んで「寄生」しているとしか思えない。しかし他方で、それを批

  判して理想論を美しい論文にまとめても、どろどろした「現実」に手を突っ込まなけれ

  ば、それはエクスキューズにしかならない。

として、実践派ならではの力強い宣言を行なっている。


宮台が、飯田さんが環境大臣にならなければ、原発も環境もエネルギーも、

如何ともしがたいといえば、

飯田は、自分を環境大臣に指名してくれる首相は、おそらく河野太郎しかいないという。


浜岡原発を止め、限界原発再開に待ったをかけ、脱原発宣言をした菅直人首相、

いますぐ飯田哲也環境大臣か経産大臣にでも起用しなければ、

画竜点睛を欠くことになると思うが、いかがであろうか。