ほぼ1年ぶりに、伊坂幸太郎を読む。
このひと月に、泌尿器科と皮膚科に通院した私、
加えて、昨日から歯茎が脹れだして右奥歯でしか満足に咀嚼できない。
要するに体調が思わしくないなか、「アヒルと鴨のコインロッカー」を読む。
大学生活を始めるために仙台に来たばかりの若者、
初対面のアパートの隣部屋の住人に、本屋に強盗に入ろうと懇願される。
この大学1年生の若者椎名が1人称で語る章が「現在」。
ペットショップに勤める琴美という女性、
彼女はブータン人のドルジという若者と同棲中。
ショップの柴犬が行方不明になり、琴美はドルジとその柴犬を捜しているうちに、
ペット殺害事件に巻き込まれてしまう。
この琴美が一人称で語る章が「二年前」。
「現在」と「二年前」の二つの物語が交互に支流として流れて行き、
最終的に、二つの支流はひとつになってエンディングを迎える。
私の体調のせいもあるのか、この伊坂ワールドになじめなかった。
たとえば、「二年前」の物語だけが進行すればスリリングな展開になったはずなのに、
時制が違った物語の進行は、映画でも小説でも私の大好物であるが、
中途半端なところで「現在」に引き戻されるので、ややスピード感に欠けた展開になった。
また、会話のたびに、比喩が登場して、これまたストーリがぐいぐい展開していきにくい。
私には初めての伊坂の作品「グラスホッパー」でもこんな感じだったのかな。
<<「昨日、動物園に行ったんだって?」麗子さんの質問は、銀行のキャッシュディスペンサーの
指示よりも温かみがない。>>
と、こんな調子である。
もちろん、こんな調子でいい場面も長い物語のなかには存在するが、
そこは先を急ぐべきだろという場面では、読者のためにサービス精神に徹すべき。
それと、登場人物のひとりひとりが、薄っぺらく感じられる。
奥行きのある登場人物を作り出せば、物語は彼らがひとりでに作り出してくれる、
という作家たちの言葉を何度か聞いたことがあるが、
ミステリーにはそれがあてはまらずとも、もう少し重みや深みのある人たちが必要だった。
そもそも、ブータン人の青年を登場させる必要性を感じないし、
作者がブータンに深い思い入れがあるようでもないことは、巻末の参考文献から推理できる。
つまり、それらの引用でブータンの国と青年を描いたと推理できるのである。
小さな出来事が折り重なって時制の違った2つの支流になり、
やがて本流へと合流していくのであるが、
小さなエピソードや小道具のなかに、不要だと思われるものがあった。
また、琴美が一人称で語ることに無理を生じる章もあり、何とも不思議である。
私の体調が今ひとつだったので、
この作品とはいささか不幸な出会いになってしまったかもしれない、
しばらくして、忘れ難い愛着が出てくるのかもかもしれない。