複眼の映像―私と黒澤明 橋本 忍 (文春文庫)
まだ太平洋戦争が始まる前の、遥か昔のことである。
ここで死んでいくのかなと、ぼんやりとした不安のなか、
入所した翌日にとなりのベッドの男が、よろしかったらと雑誌「日本映画」を貸してくれる。
巻末に「シナリオ」が掲載されていた、
橋本はそのシナリオを読み終わって、「日本映画」を貸してくれた男に、
「これがシナリオ・・・・・・・映画のシナリオというものですか」
「この程度なら自分でも書けるような気がする」
と言い笑われている、続けて橋本、
「これを書く人で、日本で一番偉い人はなんという人ですか」
「伊丹万作という人です」
「じゃ、僕はシナリオを書いて、その伊丹万作という人に見てもらいます」
無断で診療所を退院して、伊丹に見せるために書いたシナリオは、
それから3年の歳月がかかり、戦争が始まった翌年(昭和17年)に、伊丹に送っている。
当時、伊丹万作の脚本の代表作「無法末の一生」を、
1918年生まれの橋本、弱冠24歳の時のことであった。
戦後、橋本は会社勤めをしながら書いた7~8本のシナリオを伊丹に見てもらっていたが、
伊丹は46歳の若さで亡くなり、監督佐伯清にその後を託されることになる。
戦後、姫路でサラリーマンを続ける橋本は、上京のたびに佐伯を訪れていた。
あるとき、兄と慕う佐伯兄ちゃんと、彼を取り巻く数人で黒澤作品が話題になる。
「黒澤君とはとても仲が良くてな」 みんなの視線が兄ちゃんに集まる。 「東宝の助監督時代は、下宿もずーっと一緒だったんだよ」 「それなら兄ちゃん」 私は真正面から佐伯兄を見た。そんな二人の間柄を全然知らなかったのだ。 「僕が兄ちゃんに預けている脚本を、全部黒澤さんに読んで貰うわけにはいかないかな」 佐伯清兄の返事はいとも無造作で簡単だった。 「ああ、いいよ」
幸運だったのかもしれないが、彼自身のバイタリティのなせる業だとも思う。
伊丹や黒澤のような超一流に、橋本忍を見てもらいたいのだという、
病気や戦争で、明日をも知れない状況下をくぐり抜けてきた、
才気ある若者の可能性にかけるさわやかさに、清々しい風を感じる。
佐伯に脚本を黒澤に読んでもらいたいと頼んで、1年も経とうかというある日、
橋本は一通のはがきを受け取る。
前略、あなたの書かれた「雌雄」を、黒澤明が次回作品として映画化すること になりました。つきましては黒澤と打ち合わせをして頂く必要があり、なるべ く早く上京して頂きたく、ご都合を知らせて頂ければ幸いです。用件のみで失 礼します。 草々
差出人は、映画プロデューサー本木荘二郎であった。
「雌雄」は、芥川龍之介の短編小説「藪の中」を下地に作られた、
短いシナリオだった。
日本映画としては史上初めて、国際的な映画祭でのグランプリに輝いた。
シナリオライターを目指す若者が、こんな知らせを受け取ったとしたら、
普通は心臓が張り裂けそうになるのだが、耳元で亡き伊丹万作がささやく、
「橋本よ・・・・・・いつかはお前が出会う、いや、会わねばならぬ男、それが黒澤明だ」
「羅生門」は、先行して橋本がストーリーを組み立て、
あらためて黒澤と二人で脚本を肉付けしていった、共同脚本であった。
「生きる」と「七人の侍」の作品が作られた。
この、世界に誇れる黒澤作品の金字塔と言うべき、
旅館にこもって、3人が朝から夜までの制作風景は、
「七人の侍」は、2カ月間も缶詰で仕上げた大作であった。
いい脚本からダメな映画ができることはある、
しかし、悪い脚本からいい映画は絶対できない。
「七人の侍」は、200字詰め原稿用紙にして、500枚におよぶ大作となった、
普通の映画の2本分のシナリオに相当する量である。
日本映画史上、これ以上の質と量を誇るシナリオは他にないであろうし、
映画自体の素晴らしさは、言わずもがなのことである。
橋本は、その後黒澤と組むこともあったが、
事実上「七人の侍」が最後の仕事だったと思っている、
その理由は長くなるのでここでは省略したい。
黒澤の最晩年の作品「夢」を観て、「影武者」や「乱」で失望していた橋本は、
これぞ黒澤作品だとひざを打つ。
「夢」の完成記念パーティで、10年ぶりに黒澤明と対面する、
「黒澤さん」 「・・・・・・・・・・・・」 私はいった。 「黒澤さんの映画の中では、今日のが一番いいと思います」 黒澤さんはなにもいわずに、一、二度頷いた。そしてニッコリ笑った。本当に嬉しそ うだった。黒澤さんに会ってもう四十年以上だが、こんな屈託のない、嬉しそうな笑顔 を見たのは初めてである。 その笑顔が――私の見た黒澤さんの最後の顔だった。
私はこの場面を電車で読んでいて、涙をこらえるのに大変だった。
不思議なことに、橋本の自伝としても成り立っているのである。