遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

キャッチャー・イン・ザ・ライ/J.D. サリンジャー

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キャッチャー・イン・ザ・ライ  J.D. サリンジャー    村上 春樹 (翻訳)


16歳の主人公ホールデン・コーンフィールドは、

素行不良のため、通っていたハイスクールを放校処分になる。

クリスマス休暇をあと数日のところにひかえて、

ホールデンは寮を出て、学校をあとにする。

二度と学校には戻らない旅に出る。

列車で生まれ故郷のニューヨークへ戻り、

放校処分の連絡の手紙を両親が見るであろうその日まで、

ニューヨークのホテルで時間つぶしを企て、実践する。


たった一晩の短い物語は、

寮内の同窓生や通りすがりに出会った人とのやりとりや、

NYのタクシー運転手や自ら部屋へ呼んだ娼婦とのいさかいや、

ずっと可愛がってくれている年老いた教師宅への訪問とささやかな事件や、

電話で呼び出した美人のガールフレンドとのデートと訣別や、

両親の留守に忍び込んだ実家での実の妹との親交などなど、

オムニバス映画のように場面展開していくのである。

なんだか、会社を解雇された40代のビジネスマンのような、

行動形態である。

放たれた男は、何歳であろうとも、

その行動様式は類似してくるのかもしれない、単純なのである。



私の本棚には、野崎孝が翻訳した1979年の「ライ麦畑でつかまえて」(画像左)があり、

ちょうど30年前に読んでいたのだが、内容はあまり覚えていなくて、

今般、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を購読した。


両方の訳を読んだからといって、別に新たな感想が生まれるわけでもなく、

どちらにしろ、ホールデンは永遠に16歳のまま読者の心に生き続ける。


16歳の少年でなくても、世の中にはいけ好かないやつらはいつでもどこでも存在し、

驚くべきことに、そのいけ好かないやつらにも、

もっといけ好かない嫌なやつらが存在するのである。

その耐えられない存在の重さに、ホールデンは3回目の放校をくらって、

寒いNYを彷徨し続けるのであった。


で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱ

しからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいた

ら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までず

っとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。



たった一人の良き理解者、妹のフィービィーにホールデンは思いの丈を打ち明ける。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のような思いの丈を、である。