凍 沢木 耕太郎 (新潮文庫)
アルプスはアイガーを望む村に逗留したことがある。
アイガー北壁は高さ1800mの岩壁で、グランド・ジョラス、マッター・ホルンと並び、
三大北壁と呼ばれている。
朝夕に散歩をしていて北壁を見上げると、
はるかかなた、切り立った北壁にビバークする登山者の点す明かりが見える。
想像を絶するところでビバーク(一夜を明かす)しているんだと、
初めてのアルプスで感動を覚えたものだった。
あるヒマラヤ登山の記録ドキュメンタリーである。
山野井夫妻には、親近感をおぼえている。
少し前にNHKのドキュメンタリー番組で、
グリーンランドのミルネ島の標高差1300mのとんでもない岩壁を、
登頂に成功したのを見ていたのだった。
この作品の舞台となったのは2002年の、このギャチュンカンの北壁。
標高は7952mと8000mにわずかに足らないが、山野井は意に介さない。
「極地法」と呼ばれる、大規模な登攀隊を組んで、ベースキャンプをいくつも設営して、
目的の頂を落とすというような方法を山野井はとらない。
過去に誰かが開拓したルートやすでに設置されているロープを伝い、
酸素ボンベを湯水のように使って登る、
そんな方法をとらず、無酸素で未知のルートを単独で登攀するスタイルが、
山野井のお好みであり、彼が最強のクライマーと呼ばれる所以である。
単独でなければ、パートナーとして妙子が傍らにいるだけのことである。
ギャチュンカンへの山野井夫妻の挑戦は、
「山野井は」「妙子は」という、三人称で綴られている。
そんなに細かいことまで尋ねたのだろうかというほど、
沢木の取材能力とそのまとめ方には驚くほかない。
北壁に張り付いているあいだ中の、
山野井たちの行動や心の動きや彼らが見た幻影や、
生きぬくためのすべての技術が描き出されている。
沢木の文章により、山野井夫妻の強靭な体力と精神力が伝わってくる。
「強靭な体力と精神力」などと私が書いても、
高度7000m以上の岩壁に、のべ9日間を無酸素で張り付いていた二人を語るには、
とてもとてもとても言葉足らずな表現である。
遠い昔、9月のアイガーの麓で私が見たビバークと、
山野井夫妻の10センチの出っ張りしかない岩棚でのビバークや、
岩壁に張ったザイルにブランコのように腰掛けてのビバークとでは、
天国と地獄ほどの差があると思われる。
泰史は昨秋、自宅付近をジョギング中に熊に襲われ瀕死の重傷を負った。
男前の顔を傷つけられたようだが、彼なら残った指を熊に差し出すなら、
顔を傷つけられることなど意に介さないような、そんな男なのである。