山本嘉次郎監督の「馬」という作品がある、
主演は17歳の高峰秀子だった、彼女はその作品の助監督と恋に落ちた。
新進気鋭の女優と、助監督とのロマンスは結ばれることはなかった。
その助監督とは、黒澤明であった。
遠い昔、テレビで「馬」の撮影エピソードを語っていた高峰秀子を見たことがあったが、
黒澤明が好きだったと言う話も、彼女自身の口から聞いたような気がしている。
高峰秀子は大女優然としていない、好き嫌いをはっきり口にできる、自然な人である。
主演高峰秀子という女3人の個性に負うところが大きい作品であろう。
しかし、スクリーンに漂うのは強烈な個性ではなく、
戦争を挟んだ男女の物語を淡々と映し出しているだけである。
戦後、外地から着の身着のままで引き上げて来たそのままの姿で、
森雅之の自宅を訪れるところからこの作品がはじまる。
男の妻に嘘を言って男を呼び出した玄関先の高峰秀子の輝かしい表情が、
観客の心を捉えてはなさない。
嘘を言った後ろめたさと男に会える歓びの混じった表情に、
観客ちはこのドラマの行く末に心を捉えられるのである。
戦後の貧しい社会を背景に、悲しい男女の生活が、
生きていくのに手段を選べない女と、生活感のない男の生活が、
ドキュメンタリーのごとく現実的に語られていく。
戦後の社会はこういう悲しい時代でもあったのだと、
戦後10年経ったこの映画から感じ取れるのである。
森雅之の演じる男のいい加減さは、いつの世にも共通したものである。
いわゆる文芸もの作品で弱き二枚目を演じる俳優として欠かせない存在である、
この「浮雲」でも同様である。
しかし、彼女の作品をきちんと見たのは、「喜びも悲しみも幾年月」くらいなのだが、
高峰秀子を抜きにしてこの映画はあり得なかったと思わずにはいられない。
30歳にして、この作品だけで、「高原のお嬢さん」から
「星の流れに身を占う女」までの幅のある主人公を、
見事にいとも自然に演じ分けている。
17歳の時の高峰と黒澤のロマンスが成就していたとしたら、
わが国は、大女優と大監督をひとりずつ失っていたかもしれない。
しばしば、失った恋は新たな何かを生み出すこともあるのである。