遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

袋小路の男/絲山秋子

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袋小路の男  絲山秋子      講談社文庫
 

絲山秋子日経新聞の夕刊のエッセイで、

その名を知る、毎週楽しみにしていた。

ちょうどそのころ、彼女は芥川賞作家になった。


「袋小路の男」は、そのころすでに川端康成文学賞を受賞していた。


表題作のほか、「小田切孝の言い分」「アーリオ オーリオ」

の2編が収録されている。


袋小路に住んでいる高校生小田切孝と、

一学年下の大谷日向子。

高校で出会い、大学を出て社会人になっても交際は途切れ途切れに続いていく。


「来週、誕生日なんです」

「ああ、おめでとう」

「週末東京行ったらなんか食べにつきあってくれませんか」

「誕生日とか、そういうのだめ」

「だめですか」

「俺にも都合ってもんがあるだろ」



こんな男から離れられないのである。

「袋小路の男」は、「私」「あなた」「私達」の二人称で日向子が語る。


	
 出会ってから十二年がたって、私達は指一本触れたことがない。厳密にいえば、割

り勘のお釣りのやりとりで中指が触れてしびれたことがあるくらい。手の中に転がり

こんできた十円玉の温度で、あなたの手があたたかいことを知った。



こんなのでも、二人は付き合っているのである。

「小田切孝の言い分」では、そんな二人を三人称で綴っている。

二人称で語っていた同じ二人と、すぐには気がつかず、

歪んだ空間に迷い込んだようで、嬉しくなる。


セックスも死も暴力もなく、ゆったりとした男女の時間が流れていく。


 ジントニックのグラスを日向子の前に置くと、小田切は言った。

「こないだ気がついたんだけど、俺とおまえって話が合うんだよな」

 何をバカなことを言っているんだろう。話が合わなくてどうして十八年もつき合っ

ていられるのか。



なんだかいい感じの男女である、

当事者にはなりたくはないが、

小説で出会ってこその二人の物語である。



「アーリオ オーリオ」も、

40代に手が届きそうな叔父と、中学生の姪の往復書簡から、

純愛と呼んでも許される心のふれあいが立ち上がる。



がんばってない人間関係=自然主義的純愛短編小説3篇、

絲山秋子、偉い。