遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

脱出記/スラヴォミール・ラウイッツ

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脱出記―シベリアからインドまで歩いた男たち    (ヴィレッジブックス 文庫)
    スラヴォミール・ラウイッツ (著), 海津 正彦 (翻訳)


この本は、実話をもとに1956年にイギリスで出版され、

当時のベストセラーになったという、

本邦では数年前に始めて翻訳された。

原題は「THE LONG WALK」。



1939年、ポーランドの若き軍人ラウイッツは、

無実にも関わらずソビエトの秘密警察に捕らえられ、

拷問の末25年の刑でシベリアの捕虜収容所へ送られる。


そして、仲間6人とともに収容所を脱獄し、

徒歩でシベリアからインドへ逃亡する。

地図もコンパスもなくシベリアからインドへ逃亡する。


酷寒の3月のシベリアを出て、

酷暑と乾燥のゴビ砂漠を水も食料もなく横断し、

チベットを経てヒマラヤを越えインドまで

約1年で6500舛鯤發い臣砲燭舛竜録である。



収容所で事前準備をしていたとはいえ、

彼らは収容所を「脱獄」したのだから、

彼らの逃亡は、

冒険家がフル装備でヨットで世界1周したり、エベレストへ昇ったり、

そういう冒険とはまったく異質のものである。



全編437ページのうち、

前半170ページは、秘密警察に捕らえられ、

自白を強要させられる拷問と、

モスクワからシベリアへ貨車で送られ、

収容所を脱獄するまでのお話。

人間の持つ残酷さに唖然とする。


後半は過酷な逃亡の記録。

過酷な逃亡のなか、

偶然出会うモンゴルやチベット遊牧民の、

高僧のような慈悲に感動する。

彼らも貧しい生活をしているに違いないのだけれど、

髪や髭が伸び放題のどこから来たのかわからない薄汚い白人達を、

惜しげもなく自分達の命の次に大切な羊を食べさせ歓待してくれるのである。


その歓待の精神性は、

前半部分に登場する「スターリンの崇拝者」たちと対極をなす。

モンゴルの大地のように平らかな心の持ち主たち、

チベット高原のように崇高な心の持ち主たちなのである。

素朴な生成りのような生活をする清廉な遊牧民に本書で接して、

文明的な生活って何なんだろうと、思わずにはいられない。




著者ラウイッツは、この大脱走を企て生還したから、

この作品を上梓できたのであるが、

シベリアから東回りの樺太をめざす道を選択せず、

南下したことが結果的には成功につながった。

その成功のキーワードのひとつが、

彼の地「ラサ」だったと思う。


地図のないラウイッツたちは、方向の導となる地名をひとつ仕入れていた。

言葉のまったく通じない現地の人に通じる共通のことば、

それはチベットの「ラサ」であった。

ラサと聞いた人たちは正確にその方向を指し示してくれるのであった。



食べなくても飲まなくても、

真の自由を求めてただひたすら歩く、

人間のすさまじい執念に、心底感嘆する。


そして、あらためて水と太陽のありがたさに、

深く感謝する次第である。