遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

パッチギ/井筒和幸

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パッチギ

監督: 井筒和幸
出演: 塩谷瞬, 高岡蒼佑, 沢尻エリカ



うちの奥方、不機嫌さがもろ前面に出るタイプ。


私の、物事を先延ばしにする煮詰まらない態度に・・・

眠くなってきたときと、うたた寝の寝起き時に・・・

長女との諍(いさか)い時に・・・


これが、うち奥方の3大不機嫌時で、

内面を隠そうとせず、態度に出してしまう。

家族以外の人間には、不機嫌になる前に怯(ひる)んでしまうくせに。

ま、こういう態度は一般的なのかもしれない。


沢尻エリカの新作映画の舞台挨拶での態度が、

問題になっているようで、

確かにあの場所に立つべき精神状態ではなかったような気がする。



映画「パッチギ」は、何ヵ月か前にケーブルTVで視聴した。


1960年代後半、

京都の在日朝鮮人高校生たちと日本人の高校生の、

敵対と友情を、京都フォークをバックに描いた作品。


当時私は京都に居たわけではないが、

あのような青春群像は確かにあったと思われる。


在日朝鮮人への差別という、深い重い問題は確かにあり、

あまり表に出ないが、いまだにそれはあると思う。


井筒和幸は、その重いテーマは割りとさらっと描いていた。


在日の少年の葬式の時に、

在日としてずっと苦労をし続けた老人の怒りが、

主人公の日本の高校生に向けられるシーンがあった。

田切ジョーの歌う「悲しくてやりきれない」をバックに、

主人公が葬式を追い出されての帰り路に、

加茂川に架かる橋の上で取る行動に、

在日の老人のやるせない悲しみが重なって、見る人の心を打つ。



フォーク・クルセダーズの名曲がバックに流れるいくつかの名シーンが、

作品全体を通して、重いテーマを重くしない効果を生んだと思う。



敵対する高校生の喧嘩場面が、頻繁に登場するが、

やったりやられたりで、その両陣営の馬鹿高校生のおばかさ加減に、

それも井筒の狙いなのか、ある種のユーモアさえ感じる。



当時の、貧しくて説明できない行き場のない憤怒が、

血の気の多い時代を形成していた感もあった。


若者達の怒りのパワーは、

学生運動や、河原での集団での果し合いや、

音楽活動や、海外での放浪や、恋愛への憧憬などに姿を変え、

彼らの生活を形作っていた時代だったのかもしれない。


そういうおもちゃ箱をひっくり返したような当時の京都の街を描いた作品が、

この映画である。


お馬鹿な男達の描写とは対照的に、

女達が実に生き生きと描かれていて、

在日のおばさんもお嬢さんたちも、

日本のおばさんも、等身大の魅力に溢れていた。



殊に、沢尻エリカは別次元の美しさで撮られていた。

「パッチギ」の撮影中、彼女がずっと上機嫌だったとは考えにくいが、

映画の中の彼女は、この前の舞台挨拶の沢尻とは別次元の美しさであった。


星は自分の力だけできらめくことはできない。