「本格小説」につづく私自身著者の2冊目の作品である。
夏目漱石の未完成の絶筆「明暗」を引き取って、
74年振りに完成させた見事な作品である。
冒頭の一章「百八十八」だけ漱石の文章を使い、
「二百八十八」で最終章になっている。
結婚間際に逃げられた、かつての恋人清子が投宿する温泉宿に、
新妻お延を裏切るような形で、津田は術後の湯治のために部屋を取る。
清子にまだ愛情を感じる津田の、温泉宿での細かい心理描写に、
どきどきしてしまう。
清子に未練たっぷりの恋する津田の、
心の動きや勇気を振り絞る会話や、
相手との距離感のとり方、狂喜したり落胆したり、
しかしそれを決して相手に悟られないようにする心の張り方、
これらが几帳面に描写されている。
ゆっくり流れるたっぷり摂られた時間のなかから、水村の文章は、
ひとつひとつ、一字一句読み手の心に染み入ってくる。
始めのうちは、その文体から漱石が書いているのと錯覚する、
しかしそんな見事な「なりきり」文体がそのうち気にならなくなる。
水村の紡ぎだす言葉の豊富さと表現力は、
現在の作家に多く類を見ない。
後半は一転、お延が夫を宿に訪ねていくことで、
ゆっくり流れていた時間は、早鐘を打ち出し、
最終章まで一気に、しかし一糸乱れず読み手を導いてくれる。
津田の上司の妻吉川夫人、津田の妹のお秀、
お延の嫁入りについてきたお手伝いのお時、
そして清子とお延という、
まったく違う容姿と境遇と精神を持った女たちが、
実に丹念に、描き分けられている。
二百八十七章と最終章二百八十八の大自然の描写は、
そしてその大自然に溶け込んでいく人の心の描写は、
感動を覚えずにはいられない。
まったく偶然に開いた86頁と290頁を紹介する。漱石臭がすると思うがいかがであろうか。
婦人に脊中を押されて初めて此所までやって来た津田ではあるが、いざ来てしまえば彼女 はもう不要であった。自分が清子に会いに来たのを唯一知っている点に於いてその存在は煩わ しくもあった。然しお延のことを中心に考えた時、婦人の存在は不要とか煩わしいというよう な生やさしいものではなかった。この瞬間夫人が東京で呼吸しているという事自体、飛んで もなく物騒なものが野放しになっているような恐怖があった。先刻(さっき)から夫人の姿を頭に 描きながら思案していた津田は、仕舞には肥え太った夫人が卒中にでも遣られて呉れたら有難い くらいに思っている非情とも現金とも云うべき己れを発見した。
津田は故(もと)の居場所に戻るとお延が座敷を出る前に汲んで出した茶を、飲むように嘗めるよ うに、口の所へ持って行った。外は何時しか透き徹る雲の間から日脚(ひあし)が出ており、柔らか い光を受けた築山の葉が黄金色に陽を射返して、暮れ行く秋の名残りを目に訴えていた。昨夜( ゆうべ)の暴風雨(あらし)を猶(なお)梢に生き残った葉だった。遠くの向こうには焦げたように 赭黒(あかぐろ)くなった杉山が連なっている。華やかな色彩には乏しくとも四囲(あたり)は 凡てが平和であった。長閑であった。