応挙は農家の次男坊であった。
生まれは京都は亀岡盆地の西の端、西国三十三箇所の第二十一番札所、
穴太寺の地で生まれた。
私の母親もその近くの生まれであり、私も穴太寺周辺はよく知っている。
地元の人はこの寺を、「あなお寺」と呼ぶ。
写生を重んじた作風の絵は、広く人々に受け入れられる心の安らぐものである。
「孔雀牡丹図」は、流れ流れて京都は相国寺に隣接された
承天閣美術館蔵となっている。
なんの衒(てら)いもなく雄の孔雀を配した構図は、
写生を重ねた研究家の、自信の裏づけなのであろう。
道楽で絵を極めた天才肌の画家たちとは一線を画す、
応挙の、究極に真面目な画風を楽しまれたい。
承天閣美術館は2007年7月まで改修のため一時閉館中である。
「藤花図屏風」のある根津美術館もまた、改修で3年余り閉館している。
円山応挙 (まるやまおうきょ 1733~95)
江戸中期の画家。幼名岩次郎、名は?(てい)。字(あざな)に仲均、仲選、号に一嘯、夏雲、仙嶺などが
あるが、1766年(明和3)に名を応挙とあらためてからは、一貫して応挙の落款(らっかん)をもちいている。
丹波国穴太(あのう)村の農家に生まれ、15、6歳のころ京都にでて、石田幽汀(ゆうてい)に絵をまなんだ。
狩野派の画法を基礎に、三井家など新興の町人層の感覚にあった平明で情趣的な新様式を確立し、
その後の京都画壇に大きな影響をあたえた。
覗機械(のぞきからくり)用の眼鏡絵制作を通じて、西洋画の空間表現にふれ、また庇護をうけた円満院祐
常法親王の影響などから、経験主義的な写実の重要さを認識。
多くの写生をのこすとともに、中国の古画や清時代の写実的な花鳥画なども研究した。
代表作に「藤花図屏風」(根津美術館蔵:重文)「雪松図」( 三井記念美術館蔵:国宝)
「雨竹風竹図屏風」(京都・円光院蔵:重文)「保津川図屏風」個人蔵(重文)、
大乗寺の障壁画(兵庫・大乗寺蔵:重文)などがある。
江戸中期の画家。幼名岩次郎、名は?(てい)。字(あざな)に仲均、仲選、号に一嘯、夏雲、仙嶺などが
あるが、1766年(明和3)に名を応挙とあらためてからは、一貫して応挙の落款(らっかん)をもちいている。
丹波国穴太(あのう)村の農家に生まれ、15、6歳のころ京都にでて、石田幽汀(ゆうてい)に絵をまなんだ。
狩野派の画法を基礎に、三井家など新興の町人層の感覚にあった平明で情趣的な新様式を確立し、
その後の京都画壇に大きな影響をあたえた。
覗機械(のぞきからくり)用の眼鏡絵制作を通じて、西洋画の空間表現にふれ、また庇護をうけた円満院祐
常法親王の影響などから、経験主義的な写実の重要さを認識。
多くの写生をのこすとともに、中国の古画や清時代の写実的な花鳥画なども研究した。
代表作に「藤花図屏風」(根津美術館蔵:重文)「雪松図」( 三井記念美術館蔵:国宝)
「雨竹風竹図屏風」(京都・円光院蔵:重文)「保津川図屏風」個人蔵(重文)、
大乗寺の障壁画(兵庫・大乗寺蔵:重文)などがある。