遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

憂い顔の童子/大江健三郎

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憂い顔の童子   大江 健三郎   (講談社文庫)



主人公は、小説家「長江古義人(こぎと)」、大江自身がモデルであり、


の続編というべき長編小説である。


このシリーズは、私のお気に入りのブログの学生クンが記事にされていて、

遅ればせながら読んでみたもので、彼と出会わなければ手に取らなかったかもしれない。

その彼は、今はもう卒業し、学校で先生をなさっている。

まだ就任間もない先生でお忙しいであろうが、きっと良い先生になられるであろう。



私は、読了まで時間を要した。しかし、苦しい時間ではなかった。


すらすら読めないのは、私のインプット能力のせいと、

文庫なのにずっしりとした重さの頁数と、

そして何よりも、作者が何を言いたいのか、何を読み手に届けようとしているか、

それを考えながら読み進まなければ、あるいは読み返さなければならなかったからだ。


セルバンテス(ドンキホーテのエピソードも)もイェーツもブレイクも、

名前しかよくは知らない無教養の私であるが、

四国の森の物語に、ずうっと引き込まれていた。

大江の文章の力が、私を捉えて放さないのだろうけれど、

行間にあるものを読み取るために読み返す作業は辛くない、悪くはない。


登場人物の「なまえ」に、わけもなく感心する。

古義人、千樫(ちかし)、アカリ、真木、アサ、

吾良、ローズ、香芽(かめ)、真木彦、銘助、動(あよ)。

(はじめは「動くん」が読めなくて、イ・ムジチのフェリックス・アーヨを連想してなんとか凌いだ)

彼らは、少しずつ大江の分身たちであるのかもしれない、

小説だから分身なのは至極当然ではあるが、

実に深くされど難なく人物が書き込まれている。


この近しい人たちと、松山の地元の人たちと、古義人の学友たちとで、

四国の森とその周辺部で繰り広げられるファンタジックな冒険譚や、

夢のような数々のエピソードが、私には新鮮な語り口で綴られている。


ノーベル賞を受賞した大江の文章が、

翻訳でどのように日本語以外で接した人に感じられるのか判らないが、

この国の言葉は、四国の森のように実に奥深くてさまざまな形をなしている。



どの様な文章なのか、今(まったく他意なく)偶然開いたページを紹介しよう。


 梅雨も終わり方であったれど、朝から小雨が降り続ける一日、ローズさんの運転す

る青色のセダンでアカリ、古義人は町営プールへ出かけて行った。JR駅から盆地の

奥に向かう古くからのバス通りには、濡れそぼって色濃い青葉の茂りが両側から差し

掛けていた。アメリカ式のローズさんの運転が古義人をハラハラさせる勢いで、小柄

な教師に先導されたお揃いの黄色コートの子供たちを追い越した。

 古義人は、もう慣れてきた手順どおり、男性更衣室でアカリを水着姿にすると、ロ

ーズさんが支度に手間をかける女子更衣室の前に残して、ひとり先に泳ぎ始めた。さ

っき追い越した十人ほどの生徒たちもプールサイドに降りて来て、三十年輩の教師と

準備体操を始めた。


実はこの次の頁、町営プールでのエピソードが、はらわたが煮えくり返るものなのである。



このような文章・文体が、日本語以外でどのように読まれているのだろうかと思うのである。

四国の森の「童子」の伝説の空気が伝わるのかとも思うのである。


もっとも、今の日本でもこの小説の空気感は伝わりにくいのかもしれない。


作者は、その母と義兄=親友と長男に、森の童子を見たのだろうか。

危機が見舞うたび、時空を越えて出現し、彼を救う童子のごとき存在なのだろうか。


再確認のため、じっくり読み返してひとりで講読(re-reading)するべき価値がある、作品である。