小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。
これが、山本周五郎の「さぶ」の冒頭部分である。
主人公さぶは、社会の片隅に住む、のろまで間抜けで要領の悪い男である。
もうひとりの主人公、栄二は、気風の良い爽やかな江戸っ子で、
男前で、仕事も出来るし、頭も切れるし、女にも持てるし、喧嘩も強い。
絵に描いたような、愚鈍な男と、才能あるハンサム男の物語である。
お江戸の物語である。
前途洋々の栄二は、しかし、奈落の底に落ちる挫折を味わうことになる。
その栄二を中心に物語りは進行する。
そして、事あるごとに、さぶが登場し栄二を陰ながら支える存在になる、
さぶは言わば黒子に徹するのである、恣意的にではなく天性の黒子的人物なのである。
清水三十六少年は、苦労を重ね、質屋で世話になりながら自分を磨いた前半生であった。
作者と、さぶと栄二は、
社会の底辺でエネルギーを蓄えている若人だったという点で、
似た境遇だったのかもしれない。
とりわけ、山本周五郎はさぶへの思い入れが大きかったと思う。
栄二はいつの世にも存在し認知されているが、
さぶのような役回りの人物には、スポットライトがあたらないからである。
「欲」も「徳」もなく、はなからそんなものは自分とは無縁のものだと、
社会の底辺にへばりついて生きるほかに術(すべ)はない、と思っている、
そんな清々しいさぶのありように、心が洗われる。
さぶが、栄二のいない世界は考えられなかったと同時に、
栄二にとっても、それは同じであった。
ただし、栄二が挫折から立ち直ったのは、あろうことか、
この作品の、最後の最後なのである。
さぶの清らかな友情と、栄二の幸せな未来を確認するまで、
読み手は、最後の一行まで、待たなければならないのである。
自分が生み出した、愛おしい、さぶや栄二や彼らを取り巻く登場人物を、
晩年の山本周五郎は、大きな心で抱きしめた、のである。
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、本名、清水 三十六(しみず さとむ)、
1903年6月22日 - 1967年2月14日
山梨県北都留郡初狩村(現山梨県大月市初狩町下初狩)出身。
旧制横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)中退。
知人の紹介で質屋に住み込みながら、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)を卒業。
その質屋の名前が山本周五郎質店である。
これが筆名となったのは、自身の出世作となった「須磨寺附近」を発表する際に本人の住所
「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文芸春秋が誤って山本周五郎を作者名
と発表した事に由来する。そしてそれをそのまま、以来の自分の筆名としたものである。
『日本婦道記』で第17回直木賞に推されるも辞退(※直木賞史上唯一の辞退者である)。
代表作に『さぶ』、『赤ひげ診療譚』、『樅の木は残った』、『虚空遍歴』、『ながい坂』など。
死後、氏の功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられた。
映画
椿三十郎(1962年 監督:黒澤明)
五瓣の椿(1964年 監督:野村芳太郎)
赤ひげ(1965年 監督:黒澤明)
どですかでん(1970年 監督:黒澤明)
どら平太(2000年 監督:市川崑)
雨あがる(2000年 監督:小泉堯史)
かあちゃん(2001年 監督:市川崑)
海は見ていた(2002年 監督:熊井啓)
SABU(2002年 監督:三池崇史)