遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

今村昌平の死を悼む

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私の好きな、イタリア女優。





お若い方はご存じない面々だろうが、私はフランス女優陣ともども、

この面々が大好きなのである。かなり肉感的である。

今村昌平も私と同じ趣味、かもしれない。

今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年9月15日 - 2006年5月30日)は、映画監督。東京都出身。
筑波大学附属高等学校早稲田大学第一文学部卒業。長男である天願大介も映画監督。
人間の欲望をユーモラスに描いた作品に定評があった。

『ええじゃないか』(1981年)の大失敗で「天下の今平も終わったな」と観客を失望させた後に
起死回生の『楢山節考』(1983年)を発表。本作と『うなぎ』(1997年)で、日本人で初めて
カンヌ国際映画祭で二度グランプリ(現・パルムドール)を受賞している。

同じ功績ではアメリカのフランシス・フォード・コッポラ監督など5名がいる。
なお、『楢山節考』を出品した時はカンヌ映画祭を欠席し、『うなぎ』の時は出席はしたものの
受賞作を発表する前に帰国した。

名作・川島雄三監督「幕末太陽伝」や浦山桐郎監督の「キューポラのある街」の脚本家でもある。
学生時代からの友人であるフランキー堺小沢昭一加藤武との親交が深い事も知られている。

1975年、横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)を開校し、校長をつとめた。
2006年5月30日午後3時49分、転移性肝腫瘍のため東京都渋谷区の病院で死去。享年79。


今村昌平の映画に出てくる女優も、かなり肉感的である。

春川ますみ坂本スミ子、沖山秀子、賠償美津子。

女を描いたら天下一品だと、私は思っている。

肉感的ではないが、清水美砂も、今村できれいになった。



男優陣もかなりの個性派である。

というか、今村の人間の描き方が、生々しいのであろう。

東京の闇市で根性を鍛えているときに、生身の人間を見ていたようだ。


その頃に黒澤明の「酔いどれ天使」を観て、感動して、

今村昌平は映画監督になろうと思った。


木下恵介の助監督は、二枚目が勤めることになっているので(と、今村が語っていた、)

今村は「小津組」に入れられた。





川島雄三監督の「幕末太陽傳(1957年)」の脚本&助監督

浦山桐郎監督の「キューポラのある街(1962年)」の脚本

原一男監督の「ゆきゆきて、神軍(1987年)」の企画


自らメガホンを取らなくても、映画の歴史的なシーンに名前を連ねている。


パルムドールを2回受賞していることで、それ以上何も説明する必要のない、

稀代の名監督であった。


昔は「おっかないオジサン」だと思っていたが、

子どもには解らない、体制に迎合しない大衆に媚びない筋金入りの大人であった。


小沢昭一が弔辞を読むのだろうな、野坂昭如もかな…。


また、巨きな星がひとつ、帰らない存在になってしまった。


謹んでご冥福を祈りたい。



監督作品
盗まれた欲情 (1958年)日活
西銀座前駅 (1958年)日活
果てしなき欲望 (1958年)日活
にあんちゃん (1959年)日活
豚と軍艦 (1961年)日活
にっぽん昆虫記 (1963年)日活
赤い殺意 (1964年)日活
エロ事師たちより 人類学入門 (1966年)日活・今村プロ
人間蒸発 (1967年)日活・ATG・日本映画新社・今村プロ
神々の深き欲望 (1968年)日活・今村プロ
にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活 (1970年)日本映画新社・東宝
復讐するは我にあり (1979年)松竹・今村プロ
ええじゃないか (1981年)松竹・今村プロ
楢山節考 (1983年)東映・今村プロ
女衒 ZEGEN (1987年)東映・今村プロ
黒い雨 (1989年)東映・今村プロ・林原グループ
うなぎ (1997年)松竹・ケイエスエス衛星劇場・グループコーポレーション
カンゾー先生(1998年)東映・今村プロ・東北新社角川書店
赤い橋の下のぬるい水(2001年)日活・「赤い橋の下のぬるい水」製作委員会
11'09'01/セプテンバー11 (2002年)