遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

翼をください/赤い鳥

イメージ 1

昨日は一歩も屋外に出ないで、家でゴロゴロ。

はじめて、ダウンロードで歌を購入。

20曲以上買ったので、散財してしまった。


再生機器は所有していないので、PCにヘッドフォン突っ込んで聴くほかない。

そのうちCDに録音したいが、今はまだその方法を知らない。


山本潤子のCDがショップの店頭に貼られていたものだから、

ついつい覗いて視聴して、何曲か買ってしまった。


35年ぶりに「翼をください」を、

はじめて「忘れていた朝」を、

所有することになる。


赤い鳥

1969年11月、第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(LMC)」に出場。
「竹田の子守唄」を歌い、第1位を獲得(この時、オフコース、チューリップも出場していた)。
1970年6月にシングル「人生」でメジャーデビュー。メンバーは後藤悦治郎平山泰代山本俊彦
新居潤子(後に山本と結婚し、山本潤子)、大川茂の5名。

1971年発売の「竹田の子守唄/翼をください」が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。


この赤い鳥の「竹田の子守唄/翼をください」を私も持っていて、何度も何度も聴いた。

翼をください」は、B面の曲であったが、メインの二人の女性ヴォーカルは大変な実力であった。



LMCで1位を「赤い鳥」に譲ったオフコース小田和正が、当時の模様を語っている。

彼ら(赤い鳥)がいなければ、オフコースはプロのミュージシャンにならなかったかもしれない。

オフコースの2人(当時は3人)が「赤い鳥」の実力を思い知らされたのは、1969年のLMCの
全国大会決勝の直前である。
会場外の駐車場で、最後のリハーサルに臨んだ小田と、鈴木康博

同じ駐車場で「赤い鳥」も練習をしていた。
これを聴いて、「すごいやつらがいる」「かなわない」と思ったそうである。
それ以後、「赤い鳥」に追いつき、追い越す存在となるべく、実力を磨き続けたのだった。


「赤い鳥」は、その後「紙風船」と「ハイファイセット」に分裂し、

オフコースは2人組みから5人編成となった。



少し話は逸れるが、オフコースに合流した清水仁は、

伝説のビートルズ・完全コピーバンドバッドボーイズ」で、右利きのマッカートニーだった。

私は彼らの生演奏を一度聴いたが、あんなに素晴らしいコンサートは他になかった。

すでに解散していたビートルズが、目の前に居たのだから、すごいコピーバンドであった。。



で、さらに時を経て、

いま、鈴木康博山本潤子は、細坪基佳(元「ふきのとう」)と、

3人でユニットを組んで音楽活動をしている。


「赤い鳥」と「オフコース」と「ふきのとう」なら、混ぜ合わせても毒は出ない、

3人とも私より年長であるが、いまも若かりし日と同じくピュアな歌声である。




翼をください」と「忘れていた朝」は、ともに作詞が山上路夫、作曲が村井邦彦

この創作ユニットの最高傑作の2曲である。



言葉など今いらないさ
この夜明け見つめる時に
ここですべてを二人で始めようよ

「忘れていた朝」より