まだ、私が働き始めたばかりの頃、
TV鑑賞だったにもかかわらず、それはそれは大感動した。
だから、同曲の日本フィルの生演奏を聴きたくて、会社帰りに当日券を求めてひとりで京都会館へ赴いた。
当日券が発売されたのかどうかは判らなかったが、
私は見知らぬおじさんからチケットを譲ってもらった。
座席は、指揮者のまん前の最前列に近いところで、いい席ではなかった。
その公演を振ったのが、渡辺暁雄(あけお)であった。
この本の巻頭に、学生時代のイワキとナオズミと、渡辺の写真が掲載されている。
利かん坊のナオズミと、ニヒルなイワキと、立ち姿の美しいやさしさ溢れる先生が、
並んで写っている、みな微笑みをたたえている。
「森のうた」というタイトルは何を意味するのかはじめは判然としなかった。
芸大のある上野の杜だろうと思っていた。(はずれてはいないだろう)
しかし、ショスタコービッチの「森の歌」というオラトリオはまったく知らなかった。
後半のクライマックスは、「森の歌」を指揮するナオズミの生き生きとしたデビュー演奏会が、
イワキの温かい視線で、嫉妬混じりの思い出の心象風景として描かれている。
ナオズミとイワキはいつも一緒で、切磋琢磨し、イタズラや悪さの限りを尽くし、
恋して愛して泣いて怒って笑って飲んで騒いで、潜り込んで逃げて逃げて、悩んで挫けて、
貧しくて美しい学生時代をすごした。
渡辺暁雄と斉藤秀雄という両師匠を持ち、林光という天才作曲家を1年先輩に持ち、
天才児ナオズミを友に持ち、美しい1年下のピアニストを恋人に持った岩城宏之。
ナオズミと、マルティノンやカラヤンの来日公演に潜り込んだ様子を描いたくだりは、
まことに圧巻で、こんなにスリリングな文章には久しく出会っていない。
この青春期は、私にとっては井上ひさしの「モッキンポット師の後始末」と並んで、
いつまでも心に残る、温かいクロニクルである。
心配していた小澤征爾(1935年-)の病状は快復したとメディアが伝えている。
イワキ(1932年-)も、ナオズミ(1932-2002)の分まで長生きしてもらって、
歳を重ね、指揮者として活躍できなくなっても、
タクトをペンに持ち替えていいお話を書いてもらいたいものである。