遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

太陽の塔/岡本太郎

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NHKハイビジョン特集岡本太郎」を観る。


1970年3月15日、ちょうど36年前の今日、

大阪の千里で、万国博覧会が開催された。


メイン会場の、「お祭り広場」では、

丹下健三の「大屋根」と、岡本太郎の「太陽の塔」が私たちを迎えてくれた。


岡本 太郎(1911年2月26日 - 1996年1月7日)

抽象絵画シュルレアリスムとも関わる。縄文や沖縄の魅力に再注目した人物でもある。平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的に行った。後年はTVなどメディアへの露出も多かった。没後は住居・アトリエ跡に岡本太郎記念館が設立された。
母は作家の岡本かの子。父は漫画家の岡本一平


丹下の洗練された作品の対極に位置していたのが、

「爆発」していた岡本作品であったが、

完成したお祭り広場は、何の破綻もなく来る人を迎えた。


岡本が作った太陽の塔の原型は、高さ70cm。


頂上にある黄金の顔は“未来の太陽”、

お腹の白い顔が“現在の太陽”、

背中の黒い顔は“過去の太陽”を表わしている。



実物は、高さ70m。

予定にはなかった、丹下健三の大屋根に穴を開けて、

巨大オブジェを完成させた。


完成までは紆余曲折があったようで、原型を見た世間から、

「『人類の進歩と調和』という万博テーマと、太陽の塔はまったくなじまない」

と、批判が相次いだようである。


しかし、芸術家はそんなことではひるまない。

自分の作りたいものが、他人に理解されないわけがないと、

原型の試作を続け、試行錯誤を繰り返し、最終形を完成させた。


「祭り」のあと、夢の街はあとかたもなく片付けられたが、

太陽の塔だけが、永久保存となった。


岡本太郎は、天才父母に作られた天才児であった。

慶応普通舎での成績は、52人中52番目であった。

因みに51番のブービーは、藤山一郎だったらしい。

この2人の腕白坊主は、後々まで、死ぬまで天才児であった。


ただ、爆発度は、太郎のほうが一郎をはるかに上回っている。


甲子園球場で、

真っ白いシャツの観客であふれかえり、そそり立つスタンドを見て、

父の一平に「アルプスみたいだね」と言った太郎。

一平は、朝日新聞に、

「そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪がありそうだ」

と漫画とともに一文を寄せる。

「アルプススタンドの名付け親は、実は、一平ではなく12歳の私でした」

と語った太郎のことばを、今もよく憶えている。



大阪に住む私は、時々太陽の塔が見え隠れする場所を車で走る。

いつ見ても敬意を込めて、心の中で太郎に挨拶することにしている。