1970年3月15日、ちょうど36年前の今日、
大阪の千里で、万国博覧会が開催された。
メイン会場の、「お祭り広場」では、
丹下の洗練された作品の対極に位置していたのが、
「爆発」していた岡本作品であったが、
完成したお祭り広場は、何の破綻もなく来る人を迎えた。
岡本が作った太陽の塔の原型は、高さ70cm。
頂上にある黄金の顔は“未来の太陽”、
お腹の白い顔が“現在の太陽”、
背中の黒い顔は“過去の太陽”を表わしている。
実物は、高さ70m。
予定にはなかった、丹下健三の大屋根に穴を開けて、
巨大オブジェを完成させた。
完成までは紆余曲折があったようで、原型を見た世間から、
「『人類の進歩と調和』という万博テーマと、太陽の塔はまったくなじまない」
と、批判が相次いだようである。
しかし、芸術家はそんなことではひるまない。
自分の作りたいものが、他人に理解されないわけがないと、
原型の試作を続け、試行錯誤を繰り返し、最終形を完成させた。
「祭り」のあと、夢の街はあとかたもなく片付けられたが、
太陽の塔だけが、永久保存となった。
岡本太郎は、天才父母に作られた天才児であった。
慶応普通舎での成績は、52人中52番目であった。
この2人の腕白坊主は、後々まで、死ぬまで天才児であった。
ただ、爆発度は、太郎のほうが一郎をはるかに上回っている。
甲子園球場で、 真っ白いシャツの観客であふれかえり、そそり立つスタンドを見て、 父の一平に「アルプスみたいだね」と言った太郎。 一平は、朝日新聞に、 「そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪がありそうだ」 と漫画とともに一文を寄せる。 「アルプススタンドの名付け親は、実は、一平ではなく12歳の私でした」 と語った太郎のことばを、今もよく憶えている。
大阪に住む私は、時々太陽の塔が見え隠れする場所を車で走る。
いつ見ても敬意を込めて、心の中で太郎に挨拶することにしている。