遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

黒と白の小宇宙/長谷川潔

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黒と白の小宇宙/長谷川潔




先日のNHK「日曜美術館」は、長谷川潔の特集であった。




私は、1980年の初夏、京都国立近代美術館での自選作品による

「銅版画の巨匠・長谷川潔展」を観に行った。



TVを観ていて、懐かしくて、当時買った図録を取り出し、

日曜の午後を眺めて過ごした。



彼の技法は、オーフォルト(エッチング)、ポアント・セッシュ(ドライポイント)、

ビュラン(エングレ-ビング)、アクアタント(アクアチント)、

マニエール・ノワール(メゾチント)と多岐にわたり、

殊に、マニエール・ノワールの技術は世界最高の匠であった。



彼の作品が注目を集め、評価を高めたのは、私の観た京都の大展覧会が契機であった。

しかし、同年12月に長谷川はひっそりとその生涯を閉じている。


長谷川は、1918年(大正7年)、27歳でフランスに渡り、

その後一度もこの国の土を踏むことはなかった。



若かりし日の長谷川は、堀口大學の自宅で、

「達磨の拓本の掛け軸をご覧になって、ご自分が達磨のようにおなりになった。」

TVで堀口大學の娘さんが、美しい言葉遣いでそう回想していた。


大學の父親が、それを目にしてその掛け軸をしばらく貸してやったようだ。

「あれを見たか、よほどあの絵が気に入ったのだろう。」

と、大學に語ったそうである。


晩年、彼は若いときに達磨に感動した時の決意を、こう語っている。

「私は、西洋の活版インクの油光のする黒の色に到底満足できなかった。」



銅版画で、独自の、神の手によるマニエール・ノワールを完成した。

深い深い「黒と白の小宇宙」である。


渡仏前に残した木版画は、晩年の写実的作品とひと違う、

大胆な線が生き生きとしていて、こちらも素晴らしい作品群である。



画像は「狐と葡萄」(1963年)


長谷川 潔
1891-1980(明治24-昭和55)

横浜、御所山(現・西区御所山町)に生まれる。東京の麻布中学校を卒業の後、1911(明治44)年葵橋研究所に入り、黒田清輝に素描を学ぶ。翌年本郷洋画研究所に通い、藤島武二、岡田三郎助から油絵を学ぶ。この頃、山田耕筰や帝大、早稲田の文学青年達との交流から世紀末芸術や表現主義の絵画に関心を持ち、木版画、銅版画を試みる。1913(大正2)年日夏耿之助、堀口大学らの文芸同人誌『仮面』に参加。第1次世界大戦の終了を待ちかねるかのように1918(大正7)年暮、アメリカ経由で渡仏。17世紀にオランダで創始され、19世紀に写真の出現によって廃れてしまった銅版画技法マニエル・ノワール(メゾチント)を近代的表現で復活させて、銅版画家としての地歩を確立。1935(昭和10)年、レジョン・ドヌール勲章を受ける。終生フランスに在住し、フランスの芸術院会員として活躍する他、春陽会、日本版画協会に会員として出品した。1966(昭和41)年フランス文化勲章受章、翌年日本から勲三等瑞宝章を受けた。パリで死去、遺志により東京の青山墓地に葬られた。