遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

ショパン「葬送行進曲」/梯剛之

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日曜日、夕方のTV番組で久々に梯剛之の姿を見る。

彼と出会ったのは、2000年に彼が出場したショパンコンクールを扱った、

TV番組「心の音を奏でたい-ピアニスト梯 剛之」 (NHK人間ドキュメント) であった。



■梯 剛之(かけはし たけし)
 
 1977年東京八王子市に生まれる。父はヴィオラ奏者、母は声楽家
 小児癌により生後一ヶ月で失明。
 
 4歳半よりピアノを始め、佐々木弥栄子、高岡慶子、阿部美果子の各氏に師事。 中学からウィーンに留学、1990年ウィーン国立音楽大学準備科に入学。 エリザベート・ドヴォラック=ヴァイスハール教授に師事。
 1994年2月チェコで行われた「盲人弱視者の為の国際音楽コンクール」で優勝。 同年8月にはドイツで行われた「エットリンゲン国際ピアノコンクール」で優勝。1995年6月にはアメリカで行われた「第10回ストラヴィンスキー国際コンクール」で第2位入賞。 そして1998年、フランスのロン=ティボー国際コンクールで第2位入賞。 以後、欧州、南米など活動の場は世界に広がっている。2000年、九州沖縄サミット宮崎外相会合において演奏、ショパン国際ピアノコンクールワルシャワ市長賞を受賞。

 国際的評価を高めている彼の演奏は、音の繊細さと響きの美しさに定評がある。また人間の感情と共に、自然の音に耳を傾け、その表情を音で表そうとする音楽が聴く人の心をとらえている。 2002年10月、ニューヨーク・カーネギーホールアメリカ・デビューを果たし、大成功を収めた。1997年に村松賞、1999年に都民文化栄誉賞、 点字毎日文化賞をそれぞれ受賞。ウィーン在住。

梯剛之公式サイト→ http://kakehashi-takeshi.com/


ショパン国際ピアノコンクール

 世界で最も難しいといわれるショパン国際ピアノコンクール
 5年に一度、ポーランドワルシャワで開かれており、次回は2010年に予定されてる。
 このコンクールからはこれまでアシュケナージポリーニアルゲリッチといった世界的なピアニストが生まれており、優勝者は一夜にして世界じゅうの注目を浴びることになる。開催期間中には世界中から夢を抱いた若者たちが集まり、会場のフィルハーモニーホールは熱気に包まれる。



2000年のショパンコンクールに話を戻す。


1次予選を突破した梯は、2次予選で「スケルツォ2番」を演奏した。

楽譜どおりの早さだと、このスケルツォは「きわめて速く」弾かなければならない。


しかし彼は独自の解釈で、ゆっくりと、弾きはじめた。


結果は、楽譜に従わなかったとした審査員によって、不合格、

2次予選通過は叶わなかった。

私は、このスケルツォに感動した。

巧さはよく判らないが、心を打つには充分な演奏であった。


ワルシャワやモスクワなど、国際的なコンクールが開催されている都市、

いわゆるクラシックの本場に暮らすヨーロッパの国々の市民の、

音楽に対する造詣の深さは、並大抵のものではないと思う。


だから、本場で開催される国際コンクールは、会場全体が審査員だから、

聴衆の集中度の大きさで、演奏が認められたかどうか、判断がつく。


梯の演奏は会場には認められた、審査員から点数はもらえなかったが…。

魅せられた聴衆は、翌日ワルシャワに小さなコンサートを開いて、

彼を招いてショパン「葬送行進曲」を聴いた。


彼は、3次予選でこの「葬送」を弾く予定であった。

彼のためのワルシャワ市民が開いてくれた演奏会で、

彼の弾く「葬送行進曲」を聴いて、私は涙が止まらなかった。


テンポは、非常に非常にゆったりしていて、

一音一音が聴き手の心を軟らかく、えぐってくる。


こういう表現があるんだと、驚いた。

39才で夭折したショパンが、結核に侵されているときに作ったこの曲を、

彼は祈りながら演奏した。


梯は、コンクール最終日に「ワルシャワ市長賞」を受賞した。

これは、「あなたの豊かな心と聴衆との深い結びつきを讃えます」という

「聴衆賞」である。


2000年のこの賞は1位に匹敵するといってもいいと思う。


梯は今、小児ガンなど難病に苦しむ子どもたちのために、

病院へ出かけていってボランティア・コンサートを開いている。