遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

ピエール・ルメートルの峻烈なデビュー作「悲しみのイレーヌ」を読みました。

悲しみのイレーヌ ピエール・ルメートル  橘明美 (翻訳)  文春文庫

日本でも大ヒットしたベストセラー小説「その女アレックス」の前作にあたる、ピエール・ルメートルのデビュー作「悲しみのイレーヌを読みました。

このシリーズは、パリ警視庁のカミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの3部作で、わが国では、2014年に第二作の「その女アレックス」が先に発売され、第一作の「悲しみのイレーヌ」が2015年に翻訳され出版されました。

あろうことか「その女アレックス」のなかでデビュー作の「悲しみのイレーヌ」のネタバレがなされていたというのですが、さいわいにも私はそんなことは全く記憶になかったので、ネタバレに影響されずに読了することができました。

しかし「悲しみのイレーヌ」という邦題のせいで、カミーユ・ヴェルーヴェン警部の妻イレーヌのことが気がかりで、不安な気持ちで頁を繰っていくことになりました。

本作でパリ警視庁のカミーユのチームは、次々と起こる残虐な殺人事件を捜査しますが、その凄惨な現場が忠実に描写されます。写真でも動画でもない文章による殺人事件の描写は、私の想像力の陳腐さのおかげで凄惨さのリアリティが低減されるので助かります。その中でジェームズ・エルロイの「ブラック・ダリア」の凄惨さを想起させる事件がありました。

私の想いは正解だったようで、犯人はミステリ小説の殺人シチュエーションを忠実に再現するという方法で連続殺人事件を遂行していたのでした。

私がわかったのは「ブラック・ダリア」だけでしたが、カミーユのチームはミステリ文学を研究する大学教授と生徒や、ミステリおたくの書店主などの協力を得て、実際に起きた事件の様相から原作のミステリを導き出します。

ところが、捜査過程で過去の事件の原作ミステリを特定できても、これから起きるかもしれない犯罪を止めることができないまま、捜査チームをあざ笑う犯人を特定できないまま、カミーユのチームはバランスを崩していくことになります。

そして、驚愕の結末が読者を待っていることになります...。

事件捜査の過程で、著者ルメートルは、登場人物たちにミステリの魅力についてたっぷり語らせます。ミステリ小説は、文学の中で自立したジャンルで、そもそも文学は人の愛と死が一大テーマであり、それをもっとも具現化しているのがミステリだと力説しています。若いころからミステリに魅了されて親しんできた私もまったく同意見で、多くの作品に育てられたと思っています。

ルメートルは本作で世に出たわけですが、ミステリの魅力を登場人物に語らせ、名作ミステリのオマージュとしてまったく同じ場面の犯罪を復元し、自分も優れたミステリを書きますよと宣誓したようなデビュー作を書き上げました。デビュー作なのに、ルメートルの集大成のような力作で、世に出るために渾身のパワーを本作に注いだことがうかがい知れます。

未読のお方は、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの3部作「悲しみのイレーヌ」「その女アレックス」「傷だらけのカミーユ」の順にお楽しみください、おすすめです。私も近いうちに「傷だらけのカミーユ」を読もうと思っています。

ついでですが、ジェイムズ・エルロイもおすすめ作家であります。


カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズ  すべて文春文庫・ 橘明美
1    悲しみのイレーヌ(2006年)    2015年10月出版   三部作第一作
2    その女アレックス(2011年)    2014年9月出版      三部作第二作
3    わが母なるロージー    (2011年)2019年9月出版    中編作品 番外編
4    傷だらけのカミーユ    (2012年)2016年10月出版    三部作第三作