遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

出でよ、そして立ち上がれ知識人たちよ

エドワード・W・サイード「知識人とは何か」という本を読んで記事にしたことが2回ありますが、ほぼ同内容で3回目の登場となります。 

私は知識人ではないし、名もなき小市民で、サイードが本書で言う権力なき「おおくの人びと」のひとりです。もう職業人でもなく、どこにも属さない、自由人です。

「知識人」とはどういった人たちで私たちに何をしてくれるのかを、サイードは語ってくれていますが、本書は、BBCでの6週に渡るラジオでの講演をテキストに起こしたもののようです。

パレスチナ人として、故国を離れアメリカに国籍を得た知識人サイードの、御用学者や小児的思想家への痛烈な批判がここにあります。

政治家たちのことは鼻にもかけない立ち位置でみごとなのですが、その政治家によって地球人の自由や尊厳や、地球の自然が破壊され続けてきた歴史は残念ながら続いています。

知識人は、金や地位や名声にあこがれて、悪魔に魂を売ってはならない。つねにニュートラルな位置にいて、権力による悪行や非人道的なことを日の当たるところに引き出して、それと断固戦うひとが知識人であると、本書を読んで認識しました。

それに近い老若男女はわが国にも少なからず存在していて、下に抜粋したサイードが掲げた知識人たる振る舞いが重々分かっている人たちが存在します。しかし、フリーランズ以外の彼らは彼らの暮らしを守るために沈黙した結果、公的機関も企業も教育機関も学術会議も法曹界もジャーナリズムも、政治家たちのわがままに振り回されているように思います。

常に政権や権力に対峙して、まずは日本を平和で幸福な国にしてくれる知識人が多く出て来ることを私は望んでいます。私ができることは、そんな人たちを支持することぐらいですが、多くの知識人が物陰から出てきて立ち上がってくれることをずっと望んでいます。


(本書より抜粋)
知識人にとって、もっぱら権力に奉仕し、権力からおこぼれを頂戴しようという立場は、批判精神や旺盛な独立精神に裏づけられた分析とか判断にまったく資するものではない。ところが、政府や大企業につかえる場合、モラルの感覚をひとまず脇におくようにという誘惑の声、またもっぱら専門分野の枠のなかだけで考えるようにし、懐疑を棚上げにせよという誘惑の声は、あまりに強力で、それにうちかつのはむつかしい。多くの知識人は、こうした誘惑に完璧に屈している

世界人権宣言は、戦争に関する規則、捕虜の扱い、労働者・女性・子供・移民・難民の権利などについて、厳格な規定を定めている。すべての人種や民族は、同じ自由を保証されているのである。知識人の役割とは、国際社会全体によってすでにに集団的に容認された文書である世界人権宣言に記されている行動基準と規範を、すべての事例に等しく適用することなのである。

知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことです。あなたはあまり政治的に思われたくないかもしれない。論争好きに思われたらこまるかもしれない。欲しいのは、上司あるいは権威的人物からのお墨つきである。そのためにもあなたは、バランスのとれた考えかたの持ち主で、冷静で客観的、なおかつ穏健であるという評判を維持していたいかもしれない。あなたが望むのは、意見を打診されたり諮問されたりする立場となり、理事会や高名な委員会の一員となること、そして、責任ある主流の内部にとどまりつづけることである。そうすれば、いつの日か、名誉職にありつけ、大きな賞をもらい、さらには大使の職まで手に入れることができるかもしれない。
知識人にとって、このような思考習慣はきわめつきの堕落である。

帝国主義ファシズムという、この不毛なまでに単純化された選択肢を考案した者たちが、思想的理由だけでなく政治的理由からも、ファシズム帝国主義のどちらかいっぽうにつくのではなく、どちらも拒否しうること、なおかつそのほうが望ましいと理解できなかったのは、わたしにとってはおどろきというほかない。

団体活動とか党活動が、もともと性にあわないわたしは、周辺的存在でいることに、つまり権力の環の外にいることに慣れっこになってしまった。アウトサイダーでいることのほうが美徳であると、いつも正当化して考えてきた。軍隊に命令をくだしたり、政党や国を率いて、有無をいわせぬ権力をふるう男女のことを、わたしはどうしても信ずることができない

知識人たる者、開放と啓蒙を代弁=表象しなければいけないが、しかし、開放と啓蒙を抽象的なもの、つまり血のかよわない天上の神々のようなものとして扱ってはならない。社会のなかでおおくの人びとが経験しつつあることと有機的にむすびつくか、もしくは、そうした経験の有機的な一部でありつづけねばならない。ここでいうおおくの人びととは、貧しき人びと、特権を持たぬ人びと、声なき人びと、表象=代表されざる人びと、権力なき人びとのことである。知識人の表象は、どれもひとしく具体的で生々しい。そういった知識人の表象も、信条とか宗教的教義とか専門的方法に変質させられ凍結されてしまうと、早晩、息の根をとめられ、のちの時代に伝わらなくなってしまう