遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

彼は利用されていただけだから擁護する必要はない

三浦瑠麗とかいう学者風のタレントが、統一教会擁護者として地上波などに出ているようですが、このたびTwitterで「村八分」ということばを誤って使っているとして半ば炎上しています。

三浦瑠麗 Lully MIURA @lullymiura
個人的には、お弔いにも出ないというのは冠婚葬祭からすら関係を切ろうとする「村八分」の論理のように思いますが。客観的にはむしろ警備費用は少なすぎるくらいだし、「在任期間等の具体的基準が示されない」という論理だけで欠席するのは、あまりに評判を落とす気がします。

村八分として絶交されている一家でも、お弔いについてはその限りではないので、三浦の使い方は間違っています。

学者風のタレントとしてはちょっと恥ずかしい使い方になりました。ついでに言いますと、村八分は「火事と葬儀」(これで二分)だけは村人たちは無視しないし絶交しないことを表しています。

そもそも、三浦は「安倍晋三の弔いをお前らは無視するのか」ということをツイートしていますが、私なら火事であろうが葬儀であろうが見向きもしないことを決めています。

三浦は、大喪の礼(たいそうのれい)を「たいものれい」と呼んだことでもひんしゅくを買っていましたが、こんな人間のご託に付き合う気もなく顔も見たくないし声も聴きたくないし、放置していればいいと思っています。

ところが、その三浦が「車の中で熱中症で亡くなった乳幼児と安倍晋三の命の重さは全然ちがう」と言ったということを知って、これは看過できないと思いました。

そのことを三浦が言った前後の脈絡はよくは分かりませんが、ニコ生の番組か何かで確かにそのようなことを喋っています。要するに、安倍の命の方がはるかに重いもので、赤ちゃんの命と比べようがないと言いたいようです。

私にとっては、車中で亡くなられたお子さん(先だっての牧之原の事故とは別の事故)の命の重さは、その子の失った時間を考えてみると未知の可能性ははかり知れないものであって、カルト教団に利用されただけで日本国の役に立たなかったまま亡くなった元首相のキャリアと比べて重さがどうのと比較するのは失礼だと思います(亡くなられた赤ちゃんに失礼)。

ということで、ごみのような安倍支持派が、統一教会を擁護することで安倍晋三を擁護できていると勘違いしているようですが、「安倍晋三統一教会に騙されて売国奴に名を連ねられた」と考えれば、もうちょっと違う方法の擁護ができると思うのですがいかがでしょうか。

そのうえで、「ああ安倍ちゃん、利用されただけなのね」で四方丸く収まるような気がしますし、国葬は無用で時間と税金の無駄使いだとも思います。