遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

ウトロ放火裁判で思うに、人生を幸せに過ごすには差別意識を捨てることが不可欠な要素です

2021年在日コリアンが多く暮らす京都府宇治市のウトロ地区の建物や名古屋市にある韓国学校の建物に火をつけたなどとして、放火や器物損壊などの罪に問われた被告に対し、昨日、京都地方裁判所は、「偏見や嫌悪感による犯行で、民主主義社会において到底、許容できない」として求刑どおり懲役4年を言い渡しました。

画像や映像で見たウトロ地区の無残な焼け跡からの印象では、懲役4年は短いと思いましたが、幸い火事で人は傷ついていないのでそんなものかとも思いました。
被告は、まだ23歳なので刑期を終えてもまだ長い人生は続くわけで、彼は余生をどのように暮らすのでしょうか。

被告は、判決を受け入れるとして控訴は考えていないようですが、「自分の一方的な韓国嫌悪の感情は変わっていない」朝日新聞の取材に答えてえているそうで、差別意識は変わっていないようです。

裁判で罪を裁くことと、何が彼をそう思わせるのかを調べることも重要だと思いますが、4年間の刑期をつとめる間に、そういうプロファイリングが行われることはないはずで、そこが美しくて偉大な先進国日本の残念なところです。

 

韓国の人たちが、歴史的な事情で日本人が嫌いだとか許さないというのは理解できます。

たとえば、韓流ドラマを見ていても、日本製の車や電化製品などが登場することはありませんが、ヨーロッパ車やアメ車はよく使われています。かつて、朴槿恵大統領が何かの折にアシックスのシューズを履いていたことがあり、その時には大変な非難があったとニュースになりましたが、日本製品を使うことはセンシティヴを通り越してタブーなことのようであります。

日本に侵略されたり併合されたり慰安婦にされたりデマにより虐殺されたり強制労働を強いられたりした歴史があるので、そのことを日本人が否定しようが忘れていようが、彼らの中には決して忘れないし日本を許さない人が存在することは理解できます。

しかし、今回の裁判の被告人のような若い日本人が、なぜ在日コリアンを差別したり韓国が嫌いなのかがなかなか理解しがたいところではあります。妻が言うには、差別は貧しい日本国の象徴的なことかもしれない、というのも的を射た意見だとも思います。

個人的に特定の個人が嫌いで、その嫌いな人間がたまたま韓国人だったとかアメリカ人だったとかケニア人だったという例はあるにしても、だからと言って韓国やアメリカやケニアの全てを否定したり差別することはないのが普通です。

統一教会が韓国から始まったとは言え、統一教会自体は解散・消滅しなければならないと思いますが、だからと言ってそれが理由で韓国の何もかもが許せないということにはならないのが普通です。

だから、きっと差別主義者は何か思い違いをしているのだと思います。

外国が嫌い、中国が嫌い、韓国が嫌い、女が嫌い、LGBTQ(性的マイノリティ)が嫌い、障がい者が嫌い、老人が嫌い、子どもが嫌いなどいろいろ理由があるのでしょうがだからといって差別することは許されないことです。

何を偉そうにあんたは差別してるの?あんたこそなんぼのものなの?ってことだと思いますがいかがでしょう。

私は、例えば政治家とか官僚とか知識人やジャーナリストなどを批判しても全く問題ないと思いますが、というか、彼らの不法行為や税金の無駄使いや差別発言などを放置することは民主主義的な秩序が保たれなくなることですから、彼らの行為については徹底的に監視して批判することが必要不可欠だと思います。それは差別でもないことです。

しかし、普通の一般人が普通に暮らしていることになぜか我慢がならない人がいるようで、嫌いなら見なきゃいい、関わらなきゃいいという分別がつかずに差別したいようで、差別はしてはならないことだということも分からないようなのです。

ということで、一度しかない人生を幸せに楽しく過ごすには、まずはあらゆる差別意識を捨てることが不可欠な要素だと思いますが、みなさまいかがお考えでしょうか。